ダンデイズムの立役者、ボー・ブルンメル

 ロンドンのジェミンストリートに建つ銅像は、洒落者ブルンメルこと、ジョージ・ブライアン・ブランメル(1778年6月7日 – 1840年3月30日)。彼は、摂政時代のイギリスにおけるファッションの権威であり、摂政皇太子(後のジョージ4世)の取り巻きの一人でもあった。

1790年からイートン大学で学んでいた頃からすでに衣服に興味を持ち一目置かれていた。貴公子ぞろいの同級生の中でも、服装への関心と洗練は抜き出ており、非の打ち所のない身だしなみと冷ややかで物憂げな立ち居振る舞いによって、級友たちからボー ブランメルと呼ばれるようになった。ボー・ブランメルのボーは、フランス語で美しいと言う意味で、お洒落なブランメル、粋なブランメルとでも訳せるだろうか・・・。

 摂政皇太子(後のジョージ4世)に会う目的で騎兵連隊に入隊するためにその後オックスフォードへ移った。一旦、入隊すると休暇をとった。チェスターフィールド 4番地 ロンドンに移住してからは、しばしばある特定の階級の人々と昼食をとるようになった。

 彼の立ち居振る舞いは、社交界で注目を集めた。貴族の出ではない彼ではあったが、常に敬意を払われ、称賛されていた。虚飾、表面的な退屈さ、傲慢な雰囲気、趣味の良さが他の人とは違っていた。

 ブランメルの服装はシンプルでありながら、極端に細部までのこだわりがあった。ブルーのジャケットに真鍮のボタン、ウエストコート、膝丈のズボン、首にはスカーフを巻きモスリンの白いネクタイと言うスタイルを特に好んだ。彼のエレガンスは見た目だけではなくポーズ、社交界においての鋭く、すばやいつっこみと返しのあるスノッブでユーモアに富んだ会話にもあった。

 19世紀には、、ジョージ’’ボー’’ブランメルがダンデイズムの代表と見なされ、その時代の美の審判員と呼ばれた。そこから様々な変革を遂げ、ダンデイズムは若者、芸術家、作家、ヨーロッパの軍隊の間に広まった。

1816年5月18日、パトロンであるウェールズ公ジョージとの不和が原因でイギリスを去り、フランスのカレーに移り住んだが、イギリス社交界の注目を集め続けた。ロンドンを去ったとき、彼の全財産はオークションにかけられ、その収益金でしばらくは食い繋いだ。借金で首が回らなくなっていた頃、フランスのカーン市に新設された領事の職に任命された。ここで残りの人生を過ごし1837年、梅毒のためカーン市の病院に入院、1840年、人生の幕を閉じた。

 洒落者であるために必要なのは、着こなしのセンスのみならず、物事の本質を自分のものにするほど熟知しユーモアに変える余裕と頭の切れ、社交性ではないだろうか。

イタリアの伊達男を探して・・・

イタリアの男子はなぜそんなにお洒落なのだろう・・・ 過去に遡り深く追求していきたい。

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